卒業式を終えて

先ほど卒業式が終わり、これでついに3年間の高校生活が終わりました。高校生活が終わったという実感はまだないのですが、今あらためて3年間を思い返すと、たくさんのことを経験したなあと思います。部活に打ち込み、バドミントン部の仲間とふざけあったり笑いあったりした1年生の日々。バンド活動に夢中になり、学祭やラフズでギターをかき鳴らした2年生の日々。そして、阪大合格を目標に、勉強に精を出した3年生の日々。楽しい時もつらい時も、あの場所にいた仲間たちとともに高めあった日々は、僕にとってかけがえのない思い出です。と、今書いているといろんなことが思い出されて胸が熱くなっているのだが、これが卒業式中にはまったくと言っていいほどなかった。これまでの経験上、卒業式では多少なりともグッとくるタイミングがあるのだが、今回はずっと平常心で乾燥していた。ただの慣れだといわれてしまえばそうかもしれないが、今回のあの卒業式にはもっと根本的に欠落しているものがあったと思う。これまでの小、中の卒業式と今回の卒業式を比べて考えたときに、その答えは分かった。

 卒業式で感動するためには3つの要素が重要な役割を果たしている。

1つ目は、国歌だ。つまり、君が代だ。あれを式の頭にみんなで歌うことで、その場にいる全員が、1つの同じ厳粛とした世界に突入することができる。君が代にそれだけの力があるのはなぜだろうか。私たちはこれまで、例えば修了式や卒業式などの節目となる大切な行事の始まりにいつも君が代を歌ってきた。また、ワールドカップや甲子園の試合前に君が代がうたわれるのを聴いてきた。こうした厳粛な場所で君が代を聴くことで、私たちの脳には、君が代=厳かな雰囲気というイメージが刷り込まれ、君が代を歌うことを通して、これまでそれを歌った場の厳粛な雰囲気が無意識のうちに思い出され、私たちをその世界にいざなうのだろう。ここで大切なのは、君が代という曲のおかげで厳粛な心持になる、ということではなく、過去にあらたまった公共の場で君が代を歌ったという経験を重ねることで君が代を聴くと厳粛な心持になるということだ。要するに曲自体にはあまりパワーがないということだ。事実、私たちは君が代の歌詞の意味和知らない。

2つ目は、来賓のお客様だと思う。誰だかよくわからないおじさんたちが、私たちの感動に大きくかかわっている。心がリラックスしていては、感動という心のドキドキは生まれない。見慣れた先生やお父さんお母さんではない大人たち。その存在が私たちの心の緊張感をうまく作ってくれている。来賓のお客様には式中に先生が「日ごろからわが校の教育にお力添えしてくださり、、、」と、感謝を述べるシーンがあり、僕たち学生も頭を下げさせられる。その経験を通じて僕たちは、だれかは知らないけれど偉い人たちなんだろうという認識が生まれる。その結果、普段では生まれない緊張感が生まれ、感動しやすい環境づくりにお力添えしてくださる。きっとあの場にスーツを着た囚人がいても、僕たちは同じように緊張するだろう。

そして3つ目は、ずばり周りの人の表情で今回なかったのもこれだろう。もらい涙、という言葉に表現されているように、僕たちの感情は周りの影響を受けやすい。周りが笑えば自分も笑うし、泣けば泣く。つまり、周りの人間の表情が伝染するのだ。今回の卒業式は、コロナウイルスの影響により、ほぼ全員がマスク着用を着用していた。体育館に入場した時の違和感は、迎えてくれる保護者や先生の顔がマスクで覆われていたことにより、本来見えるはずのマスクの下の笑った表情が見えなかったためだろう。マスクがなければお世話になった大人たちのほほえみによって、こちらの心にもグッとくるものが生まれるところだったが、マスクに封じられれば、その顔はこちらに無機質な印象を与える。もともと日本人は感情を表情に出すのが苦手である。欧米人は、環境の影響でサングラスをかけることが多いが、そんな瞳という表現ツールが奪われていても相手に自分の意図を的確に伝え、コミュニケーションできているのは、口の形などによって感情を表現する能力が高いからだ。日本人がサングラスをかけたら、多分会話しずらい。あの時、マスクによって顔のパーツが塞がれていたせいで、式中に周りの友達同士の表情感染が阻止された結果、今までの卒業式とは比較できないほど泣いている人たちが少なかった。実際に、僕自身も心ふるわされることはなかった。

今回の経験から、私たちが周りの人間の表情から大きな心的影響を与えられていることが分かった。このことは、笑いや感動を演出する場面では気を付けなければいけない点である。